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中道歯科医院
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2024年8月26日
令和6年8月院長のマンスリ−ト−ク◆昭和40年代の歯科医療−⑧そこまでの日本歯科医師会の沿革
◆昭和40年代の歯科医療−⑧そこまでの日本歯科医師会の沿革
 昭和47年までの日本歯科医師会の沿革をみてみる。
◎大日本歯科医会時代(明治36年11月27日設立)(1903年)
 明治17年に歯科医師開業試験が設けられてから、歯科医師の数は逐年増加すると共に各地方に歯科医師の団体ができた。明治26年、東京で設立された日本歯科医会はその最も大きなものであったが、これら団体の間には完全な連結はなかった。
 当時、医師団体は医師法制定を企図しており、歯科医師も歯科医師法の制定に団結すべきであると、明治36年4月の大阪博覧会を期として開催された全国歯科医師大会の席上で既設の地方団体を解散して、全国的に団結する事が決定した。
 明治36年ll月27日、東京京橋の地学協会講堂に於いて創立総会が開催され、大日本歯科医会が設立された。
 創立当時の役員は次の通りであった。
 会長 高山 紀斎  副会長 榎本積一
 理事 血協守之助、佐藤運雄、曾根龍蔵
創立後第1回の総会は日露戦争のため開催が延期され、明治39年4月4日に開催された。 当時の会員数395名であった。 明治39年の歯科医師法の制定によって、 初めて法律に立脚した歯科医師会を設立せねばならなくなり、明治40年4月7日の総会に於いて組織変更することが決定した。

◎日本聯合歯科医会時代(明治40年4月7日設立)(1907年)
明治40年4月7日設立総会を開催し、日本聯合歯科医会が設立された。
 当日、役員を選任、常務委員制とし、下記の通り決定した。
 榎本積一、血脇守之助、曾根龍蔵、(互選により榎本氏が常務委員長)
 その後、明治45年4月22日の総会に於いて、常務委員として次の2名を追加した。奥村鶴吉、門石長秋。

◎日本聯合歯科医師会時代(大正7年4月l日設立)(1918年)
 大正7年4月1日の総会で日本聯合歯科医会は会則を変更し、 日本聯合歯科医師会として発足することとなった。
本総会に於いて常務委員制を廃し、会長、理事制として下の通り役員を決定した。
会長 榎本積一、副会長 血脇守之助
 理事 三輪五郎七、門石長秋、奥村鶴吉、大村一男、河村勇
 大正15年6月20日の総会に於いて、歯科医師法の改正により、各道府県に歯科医師会が設立されたので、日本聯合歯科医師会を解散し日本歯科医師会として発足する事が決定した。なお、大正7年12月7日、榎本会長は病気の為会長を辞任し、 血脇守之助が会長に選任された。

◎日本歯科医師会時代(大正l5年11月3日設立)(1926年)
大正15年11月3日、帝国鉄道協会講堂に於いて創立総会が開催された。大正15年12月11、12日の両日の総会に於いて下記の役員が決定した。
 会長 血脇守之助 副会長 宇賀武茂、佐藤源太郎
 理事長 奥村鶴吉
昭和18年に国民医療法に基づく日本歯科医師会が設立され、 国策団体となった。
敗戦後、 昭和21年10月2日に加藤清治会長が連合軍に出頭し、 レヂリ−中佐より改組の指示を受けた。会は直ちに改組の委員会を設け司令部、厚生省等と連絡、そのことに1年が経過した。昭和22年9月15日、 司令部と厚生省より新しい定款の許可を得た。 そして、昭和22年10月31日に日本歯科医師会は法律により解散した。
昭和22年11月1日、社団法人日本歯科医師会が設立認可となり、 旧会は清算事務を開始、旧役員が新生歯科医師会の代行役員として新会の役員選挙まで職務を代行することとなった。
 昭和23年3月25日、26日日本医師会館に於いて社団法人日本歯科医師会第1回代議員会を開催し、下記の初代役員が決定した。
 会長   佐藤運雄
副会長 石川周策、 西奥喜輿志
専務理事 沖野節三(昭和24年5月13日より林 了)

変遷のあとを振り返って見ると、歯科医師会の目的も次第に変化してきた。最初は親睦団体で、兼ねて歯科医学の研究とか、業権の擁護とか掲げていたが、公法人になると、国民の医事衛生の進歩発達を図るという目的に変わった。戦時中は官選会長というものができ、 政府の出店的存在となり、 一時は健康保険が会務の90%といった時代もあった。
戦前の社会保険制度は昭和2年1月1日から始まったが、 保険歯科医に対する診療報酬は政府と日本歯科医師会との間で協定した料金表により計算され、 ほぼ日本歯科医師会から提案された内容で点数が決められていたので会の意向が反映されやすかった。 その診療報酬点数の基準となったのが、 日本歯科医師会・歯科医制調査部の健康保険診療報酬点数計算規程であった。 それを指揮したのは日本歯科医師会会長を長期間務めた血脇守之助であった。
戦後の日本歯科医師会の会長は
昭和23年4月1日〜昭和27年3月31日 佐藤運雄
昭和27年4月1日〜昭和29年3月31日 入交直重
昭和29年4月1日〜昭和33年3月31日 小椋善男
昭和33年4月1日〜昭和35年3月31日 佐藤運雄
昭和35年4月1日〜昭和37年3月31日 河村 弘
昭和37年4月1日〜昭和43年3月31日 中原 實
となる。
昭和33年に新医療費体系が実施され、厚生省が点数を主体的に決めていくことになってから歯科界はおかしくなってきた。
昭和42・45・47年の変な改正を許した歯科医師会のメンバ−を次ぎに示す(表)。

   


当院の特徴紹介
いつも、総山先生の教えを守るよう治療に当たっています。
院長は、この事業の設立時から中心的役割をにない一定の成果を出しました。
年に1回は必ず「かかりつけ歯科医」で健診することが重要と考えます。
良質な音質のBGMを流してます。
患者にとってより安全で安心できる歯科外来診療の環境整備は万全