変遷のあとを振り返って見ると、歯科医師会の目的も次第に変化してきた。最初は親睦団体で、兼ねて歯科医学の研究とか、業権の擁護とか掲げていたが、公法人になると、国民の医事衛生の進歩発達を図るという目的に変わった。戦時中は官選会長というものができ、 政府の出店的存在となり、 一時は健康保険が会務の90%といった時代もあった。戦前の社会保険制度は昭和2年1月1日から始まったが、 保険歯科医に対する診療報酬は政府と日本歯科医師会との間で協定した料金表により計算され、 ほぼ日本歯科医師会から提案された内容で点数が決められていたので会の意向が反映されやすかった。 その診療報酬点数の基準となったのが、 日本歯科医師会・歯科医制調査部の健康保険診療報酬点数計算規程であった。 それを指揮したのは日本歯科医師会会長を長期間務めた血脇守之助であった。戦後の日本歯科医師会の会長は昭和23年4月1日〜昭和27年3月31日 佐藤運雄昭和27年4月1日〜昭和29年3月31日 入交直重昭和29年4月1日〜昭和33年3月31日 小椋善男昭和33年4月1日〜昭和35年3月31日 佐藤運雄昭和35年4月1日〜昭和37年3月31日 河村 弘昭和37年4月1日〜昭和43年3月31日 中原 實となる。昭和33年に新医療費体系が実施され、厚生省が点数を主体的に決めていくことになってから歯科界はおかしくなってきた。昭和42・45・47年の変な改正を許した歯科医師会のメンバ−を次ぎに示す(表)。
日本歯科医師会
富山県歯科医師会
富山市歯科医師会
◎大日本歯科医会時代(明治36年11月27日設立)(1903年)
明治17年に歯科医師開業試験が設けられてから、歯科医師の数は逐年増加すると共に各地方に歯科医師の団体ができた。明治26年、東京で設立された日本歯科医会はその最も大きなものであったが、これら団体の間には完全な連結はなかった。
当時、医師団体は医師法制定を企図しており、歯科医師も歯科医師法の制定に団結すべきであると、明治36年4月の大阪博覧会を期として開催された全国歯科医師大会の席上で既設の地方団体を解散して、全国的に団結する事が決定した。
明治36年ll月27日、東京京橋の地学協会講堂に於いて創立総会が開催され、大日本歯科医会が設立された。
創立当時の役員は次の通りであった。
会長 高山 紀斎 副会長 榎本積一
理事 血協守之助、佐藤運雄、曾根龍蔵
創立後第1回の総会は日露戦争のため開催が延期され、明治39年4月4日に開催された。 当時の会員数395名であった。 明治39年の歯科医師法の制定によって、 初めて法律に立脚した歯科医師会を設立せねばならなくなり、明治40年4月7日の総会に於いて組織変更することが決定した。